カガヤという男

 ちょうど恋人と別れたこともあって、あちこちに出かけていた。その日は古本屋だった。廃刊になった雑誌のバックナンバーを求めて、店内をぐるぐるとまわっていた。
 雑誌コーナーが店の入り口付近にあることを失念して、つい奥へと入り込んでしまったのが駄目だった。

 その人は50円文庫コーナーで立ち読みをしていた。50円文庫コーナーとは、古かったり、日に焼けていたり、つまらない文庫本たちが押し込められている棚のことだ。
 えっ、と声が出た。だって、50円文庫にある本は50円で買えるのだ。立ち読みなんてする必要あるだろうか?
 立ち読みをしていた男の人がちらりとこちらを見たので私は、慌てて口を覆った。もちろん何の効果もない。
 べっこう色のメガネをかけて、くたくたの服を着て、がりがりに痩せた人だった。

 逃げるように古本屋を出るときやっと、雑誌コーナーを見つけてショックだった。また店内に戻るのも癪で、頬を火照らせたまま自転車をこいだ。わーっと叫びたいような気もしたけれど、普通に通行人もいるし、目と鼻の先に見えているうちのアパートは壁が薄いし、狂ったことはやめておこうと思った。のんびり屋のわたしでよかったと、後から思った。


 次の日は水曜日だった。大学が2限から始まるから、水曜日は好きだ。
 ゆっくり起きて、ごはんをゆっくり食べながらテレビをみて、着ていく服をたっぷり吟味して、ついでに天気がよかったので歩いて学校へ行った。
 宗教学概論は7階の教室で、7階で行われる授業のうち、とっているのは宗教学概論だけだった。
 だからラッキーセブンの宗教学概論、内容は意味わからんけど、いいよなって思っていた。エレベーターを待つ。

 エレベーターは2種類ある。
 私はメインの棟の明るいエレベーターが好きだったけれど、すごく混雑していることを知っている。
 だからいつも、隣の棟の暗いエレベーターから昇って、渡り廊下を使うことにしていた。
 この全体的に暗い棟には、建築学科の男の子たちがいる。文学部にいる男の子たちとはちょっと違う、雑誌に載っているようなかっこいい男の子たちが多い。この間別れた彼も、建築学科の先輩だった。私がよくこのエレベーターを使うので、顔見知りになって、遊んだりしているうちに恋人になった。時間の感覚が合わない人で、わたしをグズでのろまだとよく言って、喧嘩をして、別れてしまった。

 だからこのエレベーターを使うのをやめにしようと思っていたのに、今日は朝からいろいろなことが完璧で、うっかりしていた。それを思い出したのが、エレベーターが到着して扉が開いたときだったものだから余計タイミングが悪い。
 私がこうしてのんびり頭の中で「うっかりしたなぁ」と考えている間にも、私の前にいた人はエレベーターに乗り込んで、扉をずっと開けておいてくれた。
 そしてあまりにも私がエレベーターに乗ろうとしないので、開くボタンを押したままちらりと、私の方を見た。だから目が合った。
 ガリガリべっこう眼鏡の、彼だった。
 今度は逃げ出すわけにもいかないし、わっ、とかうっ、とかそういう言葉は無理やり飲み込んで、慌ててエレベーターに駆け込んだ。
 焦って乗り込んだせいでちょっと揺れて、それが余計恥ずかしかった。
 死んじゃいたいとは思わなかったけど、どっか遠くに行きたいと思った。
 暗い箱は静かに音を立てながら、7階を目指している。


 ガリガリべっこう眼鏡の彼は宗教学概論のために7階へきたわけではないらしかった。じゃあ、建築学部か、うげー。
 私はひとりで渡り廊下を歩いた。
 講義中は最近みた邦画のことを考えていた。ストーリーは退屈だったけど『カガヤ』という役をやった俳優がかっこよかったのでレビューサイトで☆4をつけた映画。ガリガリべっこう眼鏡くんを、カガヤと呼ぼう。
 もちろんガリガリべっこう眼鏡くんとカガヤは似ても似つかない。けれど、心の中にガリガリべっこう眼鏡くんとカガヤを住まわせるのはすごく楽しいアイデアだった。

 そうなると、もっとカガヤに会いたくなった。
 いや、会おうと思えば、すぐにでも会えるんだろう。そうできなかったのはやっぱり元・彼氏のことが大きかった。
 建築学科には彼の友人も多くいたし、彼はつねに友人に囲まれている人だったので、そのせいで私は多少、建築学科に顔が利く。
 まさかそれがあだになるなんて、人生は上手くいかないことばかりで大変で、ちょっと嫌気が差してくる。
 だめだなぁと思って、ぼーっとしたくて、私はまたあちこちに出かけたくなる。

 それでうんと遠出してやろうと思ったのに、自転車は家においてきていたのだった……。
 あまりの間の悪さに、もういっそのことバスとか電車とかに乗ってやる! と気持ちが大きくなり、スマホで時刻表を調べてみる。
 うちの大学の屋外カフェには100円コーヒーがあるのだけど、おっそろしくまずくて、でも飛ぶように売れていて、実際私もよく買う。そういう粗悪品を売るから結局、カフェの椅子はいつも埋まっていて、合席はよくあることだった。
「……席、いいですか」
「どうぞ」
 反射的にそう言ってから、スマホから顔を上げた。
 ……カガヤだった。
 私に気づいているのかいないのか、そもそも私のことを覚えているのかどうなのか、わからない。
 カガヤは私と同じ、くっそ不味いコーヒーをすすりながらクロッキー帳に何かを書き付けていた。
 覗き見るのもよくないと思って、私はわざとスマホを見続けた。あと5分で出るバスを見送り、その次も見送り、電車も見送り、
 もう私はバスにも電車にも乗る気が失せて、スマホを仕舞った。かわりに本を出した。

「それ、50円文庫?」

 ――私が話しかけられているのだと気づくのに、2、3秒はかかった。

「えっ?」
「あ、いや……背表紙がすごく焼けてるから」
 そこで、カガヤが昨日50円文庫コーナーで立ち読みをしていたことを思い出した。
 そして私がいま手に持っているこの本は、いつか、50円文庫コーナーで買ったものだったことも、思い出した。
「たしかに、そう、だったかな。50円文庫」
「やっぱり。あの……ひょっとして、昨日古本屋にいた?」
 こくりとうなずくと、カガヤは小さく笑った。カガヤの笑った顔は初めて見た。八重歯が見えた。
「挙動不審だったから、覚えてたんだ」
「挙動不審……ああ、私へんな声出しちゃって、」
 だって50円文庫を立ち読みしてる人なんて見たことがなくて、とは続けられなかった。
 カガヤはまた楽しそうな顔をしたから。
 見た目に反して案外、人懐こいのかもしれない。
「あの古本屋、よく行くの?」
「……うん。」
 自分が文学部で、毎月何十冊と出る課題図書を探すために行くことも、付け加えておいた。
 あの古本屋の在庫は、ほとんどうちの文学部の生徒が回している、という情報も教えてあげた。カガヤは聞き上手というか、聞き出し上手だった。

 この後講義? と聞かれたので素直に、もう家に帰るところだと答えたら、じゃあご飯に行こう、と誘われた。
 私はカガヤがこんなに積極的な人間だとは思っていなかったので、ちょっと萎えかけてしまったりもした。
 でも仲良くしたいと思ったのも本当で、だから、チェーン店じゃないお店をわざわざ選んだのだ。
 今日の朝が完璧でよかった。私は、今日考えられる最高に良いかんじの服を着ていた。
 カガヤにもきっと良いかんじの女の子として見てもらえているだろう、と元気が出た。

 カガヤの話も聞こうと頑張ったので、カガヤのプロフィールはじょじょに埋まっていった。建築学部の同い年で、イヌ派で、好きな色は黄色。朝が苦手。彼女の有無は聞けなかったけど、
 仮にいたとしたら、こうやって初対面の女と夕飯に行くような人ではないと思えたので、まあ……いないんだろう。
 そしておそらく、私の元彼との縁はそんなにないだろう。少なくとも私は今朝まで、あの暗い棟でカガヤを見かけたことはなかったのだし。
 店を出るとすっかり夜で、このごきげんに満腹な状態で歩いて帰る、ことを想像すると、ちょっと嫌だった。
 カガヤの自転車は二人乗りができないタイプのやつなので、カガヤはしきりに謝っていた。


 それから、ちょくちょくカガヤと会ったり、連絡を取り合うようになった。
 私は失恋からすっかり立ち直ったし、カガヤも、私といて退屈そうにすることはなかった。

 ただ、ひとつ気がかりなのは、名前を教えてもらっていないということだった。初めてご飯に行ったあの夜、また私はうっかりをして、口を滑らせて、カガヤのことを「カガヤ」と呼んでしまった。カガヤはきょとんとして、
「それ俺のあだ名?」
 と笑った。
 じゃあずっとカガヤと呼んでほしいと言って、以来、本当の名前は教えてもらっていない。

 カガヤとは趣味や好みが被っていることが多く、同時に、カガヤは私の知らないことをたくさん知っていた。そして、それを教えるのが上手かった。
 塾の講師にでもなればいいんじゃないかと思う。
 カガヤは見た目に関して、相変わらずガリガリでヨレヨレでお世辞にもイケメンではなかったけど、声は良い。
 波打ち際のような声だ。
 私はよく、カガヤと話しながらうとうとした。
 カガヤは私がそうなると、起こそうとしたりせずに、本を読むかクロッキーをするかの、どっちかをしているという。
 カガヤのそういうところが、好きだ。

 私たちはぬるい湯にきもちよく浸かる心地で過ごしていたけれど、
 バレンタインデーもそろそろだし、ここらで決着をつけるのも悪くないな、と思った。
 近くで接するようになった分、カガヤの指が目に付く。
 カガヤの指は長くて、骨と皮だけみたいに細くて、まるでコウモリみたいなんだけど、ひどいのは指先だった。いつも血が滲んでいる。
 カガヤいわく、
「集中すると爪を噛んだり、ささくれを剥いたりしてしまう」
 らしい。ハンドクリームは何度も試したけど、べとべとして本も読めないし、嫌なのだと言う。
 冬、手袋も付けずに自転車をこぐカガヤの、指の関節は赤く切れていた。

 だから、好きだと言って、カガヤの指に触れたい。
 乾いたカガヤの指、想像に易いそのかさかさの、針金のような指を
 のんびりとした心で包んでみたいと、強く強く思うようになった。

「あれ、もうレポート提出したんだ?」
「いんや、まだですよー……」
 寒空の下で安コーヒーを嗜んでいると、カガヤがやってきた。
 カガヤは薄着が好きだと言っているけれど、今日みたいな雪の日はさすがにストールみたいなマフラーみたいなものを巻いて防御力を高めていた。
 やはり手袋は持ってないらしい。紙コップを持つ指が、赤くかじかんでいる。
 このオープンカフェも、テーブルの数をぐんと減らしている。ひさしがかかっているとはいえ、寒いし春休み前だしで、このくらいがちょうどいいのだろう。この、ガラガラに空いている感じは好きだ。
「えっ、まだならこんなとこでゆっくりしてる場合じゃなくないか」
「それが、USBを落としちゃってさ。単位も落としちゃうね、なんちってー」
「全くおもしろくないなそれ、USB探す?」
「たぶん無理。大学着いたらなかったから、来る途中の道で落としたんだとおもう」
 カガヤはふーんと言いながら傘だけを持ち、椅子から立ち上がった。
「えっ、こんな雪じゃ探せないでしょう」
「案外雪で真っ白だから、見つかるんじゃないかと思って」
「……真っ白なUSBなんだよ」
「まじで? じゃあ無理だな」
 カガヤがまた座りなおして、ほっとした。
 本当は目のさめるような青色だった。
 どこかに行かれるより、ここにいてほしい。単位やUSBメモリのひとつくらい落としても平気だし、なにより今日はカガヤをどう誘おうか、それが一番大変な問題だったから、
 こうして偶然カフェにきてくれたこと、当然のように相席をしていることで、私の悩みは随分と軽くなった。
 さて、どうしようか。
 夜ご飯に誘ってもいいけど、今日にふさわしそうな店は近くにない。こんな天気の中でわざわざどこかに出かけるのも面倒だろうし。
 だから、第一候補はカガヤの部屋、だ。
 カガヤの部屋には一度も入ったことが無いけれど、かといって私の部屋は、あまりよくない状態にある。
 ネットで家具を買ったら馬鹿でかい段ボールが複数届き、大量のレポートから逃避するため中途半端に組み立ててしまったものだから、実質今、足の踏み場がないに等しいのだ。
 私の部屋にこない? と言うことは、なんともないのに。
 カガヤの部屋に行きたい、と言うのはとても難しい。

「落ち込んでる?」
 コーヒーを飲み干したカガヤが、本を取り出しながら私の顔色を窺った。
「ちょっとだけだよ。……嘘。全然落ち込んでない」
「なんか暗い顔してる。悩みがあるとか?」
「そういうわけでもない……かな、カガヤ、本読むのに集中していいよ」
「いやいや、この状況でそれは無理」
 カガヤは八重歯をちらつかせながら、即座に本をしまった。
「気分が沈んでるときは、うまいもん食うに限るな。よし、うまいもん食おう」
「うん」
 カガヤの部屋に行くことを考えるのは、その後でいいかと思った。
「どこいく? 牛丼?」
「まさか。もう飽きたよ」
「だよねぇ」
 じゃあラーメンかな、と思っていたら、カガヤが自転車とってくる、とつぶやいた。
「こんな積もってるのによく漕げたね」
「いや、ひどいのは大学の前の通りだけで、あとはそんなに……」

 カガヤが地下駐輪場から自転車をひっぱりだしてきた。ぎょっとした。あのかっこいい自転車ではなく、普通の銀色のママチャリだった。
「あ、これ友達に借りたんだ。今月入ってすぐくらいか、俺の自転車盗まれたから」
「え、そうなんだ、めっちゃショックだ……」
「そー。こうみえて俺も、今落ち込んでるからね」
 だから美味しいものを? と尋ねると、また八重歯が見えた。カガヤの大きい口はいいな。と思った。
 カガヤが言うように、大学から少し離れると雪は綺麗に片付いていた。カガヤはそれまで押していた自転車にまたがって、からだを私の方にひねって、
「乗る?」
 と言った。
「うん」
 ちょっとだけ、カガヤの自転車が盗まれてよかったと思った。
 ごめんねカガヤ。

「私こっち側の道ぜんぜん知らないや」
「なんもないからねー」
 カガヤの声が風に負けて、うんと小さく聞こえる。
「おいしいラーメン屋なの? 何味がおすすめ?」
「ラーメン屋って……何が?」
「あー……ごめん、勝手にラーメンだと思ってた。どこ行くの?」
 カガヤが答える。
 でも、風で聞こえない。
 私は伸びをして、カガヤの耳もとに口をよせた。
「ごめん、聞こえなかった」
「っう、わ、おいっ!」
「えっ!?」
 自転車がフラリと揺れ、空に取り残されたような感覚に、全身がヒヤッと醒めた。
 絶対に転ぶ、そう思ったけど、私たちは何ともなかった。自転車の速度が落ちる。心臓がバクバクと暴れて、指先が痺れる。
 カガヤの長い脚が、地面をとらえた。
 私たちを取り巻く運動エネルギーは、無事に失われた。
「や、ば、かった……」
「やばかったね……」
「……びっくりした」
「うん、まじでびっくりした」
「誰のせいでびっくりしたと思ってんだよ」
 カガヤは急に振り返って、むっとした顔で私を見た。
「私のせい?」

 カガヤはなぜか何も言わずに、自転車を降りた。ならって私も降りる。
 すぐ隣にあったマンションの駐輪場に、カガヤが入っていく。
「えっ、こんな隠れ家的なところ初めて――うぁっ」
「どうした!」
 カガヤが振り向いたのを視界の隅に捉えながら、私は盛大に転んだ。
「……なんで何もないところで転ぶんだよ」
「さっきので思ったより足が震えてたみたいで」
「運転下手でごめんな」
「いや、そういうわけじゃ……あー、鞄の中身全部ぶちまけちゃったよ……」
 丸い缶入りハンドクリームが、道路をくるくる転がっていく。
 ふかふかの手袋と厚手のコートやタイツに守られた肌は、擦り傷ひとつ負っていないようだった。よろよろと立ち上がると、カガヤはいつの間にか道路の向こうへ渡っていた。手に掲げたのは私のハンドクリームだった。
 私も近くに散乱したファイルやペットボトルや、音楽プレーヤーや、お菓子を拾い集めて――
「あ、あー! あー、これやばいやつだ」
「なに、壊れた?」
「潰れた」
 もともとうすっぺらい箱は、真ん中でぐちゃりと更にうすっぺらくなっていた。

 昨日は高級チョコレートを買いに行ったのだ。カガヤが身に着けているものや持っているものが、なんとなく高いことはわかっていた。くたくたよれよれでも、そういうお洒落なのだと。
 だから下手なものはあげられないと思って、ウインドウショッピングがてら、百貨店で薄っぺらいチョコを買った。
 こんなに軽くて希薄なのに、バカみたいな値札がついているのだ、こういうものは。
 でも、これがよかった。このつや消しの、べっこう色の薄い箱を、私が買うしかなかった。他の人に買われてはならないと思った。

 カガヤは無理強いをしない。
 呆然として何も言わない私をほどほどに構って、それからは黙ってマンションの自動ドアをあけた。
 まさかと思ったけど、ここはカガヤの家だった。

「おいしいもの食べに行くっていうから、てっきりお店だと……」
 カガヤの部屋にはあまり、物がなかった。カガヤが笑い声を上げながら、冷蔵庫をあさっている。
「俺の部屋、なんて言ったら警戒されるかと思って」
「別に警戒とかしないけど、ちょっと最低……」
 そんなのは、照れ隠しだった。
 図らずもカガヤの部屋に入れたのだし、あとは――そこまで考えて、さっき転んだのを思い出す。
 チョコレートはきっと、箱の中で割れている。私の腹の下で潰れたのだ。
「はぁ……」
「そんなに俺の家じゃ嫌だった?」
 機嫌直せよ、とカガヤが出してきたのはお寿司だった。
 それも、軽く五人前はありそうな量、そこはかとなく漂う高級感。
「え……すごい、豪華だね」
「これがあると何も冷蔵庫に入んないからな、早く食べきりたくて」
 ちぐはぐな小皿に、醤油が垂らされる。
 マンションだからてっきり家族がいるのかと思ったけど、カガヤは一人暮らしだった。
 箸は一膳しかないからと、私は割り箸を渡された。

 カガヤの好きな音楽を聴きながら、もくもくと寿司を食べた。
 昨日はもっとおいしかったんだけどなーというカガヤを、私は小突いた。
 こんなにおいしいお寿司、めったに食べられない。私は記憶する。今ながれているメロディ。生のエビ。カガヤの前髪の分け目。醤油の匂い。カガヤの荒れた手に握られた、黒い箸。すこしずり落ちたべっこうの眼鏡。
 寿司は食べても食べてもなくならないので、また冷蔵庫へと帰っていった。
 CDはトラックを一周した。


「まさか、チョコレート?」
「うん」
「さっき潰れたのはこれだったのか。そうか、今日はバレンタインだもんな。そういうこと、興味ないと思ってた」
 軽口を叩くくせに、やけに穏やかな表情をしているものだから、私はどんどん恥ずかしくなっていった。
 もう何をしていたらいいかわからなくて、ただひたすらささくれをいじる。小さく血が滲む。
「あのさ、カガヤ、私――」

「言わないで」

 カガヤが、私の言葉を振り払った。それから何もなかったみたいに、これ大事に食べるから、と言って、
 冷蔵庫の寿司をぐいっとおしのけて、真ん中に、おそなえするみたいに、潰れたチョコレートの箱を置いた。

 言わないでって、どういうことだろう。
 告白をする気配が、確かに漂っていた。だから私も口に出そうとした。どうしてそれを遮る必要があるのか。
 答えは簡単だ。
 私のその言葉を、カガヤは求めていない。
 ただそれだけのことだ。
 認めると、思い出したように心臓が早鐘を打ちはじめる。痛いくらいに、ドクドクと音を立て暴れている。
 私だって暴れたいくらいだった。窓際に寄せられた観葉植物を倒したり、コンポの横に積みあがったCDのタワーを崩したり、たてかけられていたギターをぶんぶん振り回したかった。
 でも、そういう衝動に負けるのはきっとよくないともわかっていた。何せもう二十歳を過ぎているんだし。
 だから簡単に洗い物をして、私はカガヤの部屋を出た。
 もう道は覚えたから、また遊びにくるね、そう言って。

 どっちも、嘘だ。
 道は覚えてないし、もう遊びにいかない。
 春休みの二ヶ月をたっぷりとマイペースに過ごして、この恋心が褪せるまで、カガヤのことを忘れよう。そう決意して私は、地図アプリを開いて自宅までの道のりを検索した。
 こんなものか。男の子と女の子はこんなにあっけないものなんだと悟った。

 カガヤの本当の名前を知る機会がもうないということだけをちょっぴり残念に思いながら、わざとらしく、融けた雪の上ばかりを歩いた。


◆ ◆ ◆



 潰れたチョコレートの箱が、冷蔵庫のど真ん中に鎮座している。
 まさか、■■が俺のことを好意的に思っていてくれていたなんて。
 それも友情ではなく、愛情でもって――カガヤという男を、愛してくれていたなんて。
 どうすればいいだろう。あの一瞬では最適解が見つからなくて、つい、■■の言葉を遮っていた。
 その先を聞いてしまったら、もう転がり落ちるしかないと思ったからだった。
 ひとまず、いったん、落ち着いて考えなければ。
 冷気が漏れ出すのにも構わずに、冷蔵庫の扉を開けたまま、
 俺は体をかたくして、じっとチョコレートを見ていた。



{ カガヤという男 }



 名前が知りたいと思って、調べて、
 名前を知ったら顔も知りたくなった。
 初めて写真を見たとき、いつか動いているところが見たいと思った。
 いざ遠目に彼女を見た瞬間、近付いて、声が聞きたいと思った。
 その数日後、わざと隣のテーブルに腰掛けて、彼女の声や、しぐさをこっそり追いながら、
 彼女の雑談の相手が、俺だったらよかったのにと思った。
 欲がとめどなく膨らんでいく。
 血のせいか。血のせいにしたい。俺のせいじゃないと思いたい。


 父は会社を経営していて、金を持て余すほどに持っていたが、家庭を築くことには失敗していた。
 俺には物心付いたときから、母親がいない。
 ベビーシッターや家庭教師、ハウスキーパーなどが出入りしていたため、あまり寂しいとは思わなかったがそれでも、物語の世界では当たり前のように登場する母親という存在が気にかかっていた。

 それで父に、母について尋ねてみたことがある。
 父は顔を歪めて何も教えてくれなかった、それどころかひどく醜い顔をした。
 だから俺は父以外の人間から、少しずつ、母親の情報を集めた。
 そして、俺にはひとりの姉がいたことも知った。

 今の時代、名前がわかれば大体のことは調べられる。
 母親がどういう手続きを取ったか知らないが、姉の苗字は俺と同じままらしかった。同級生のSNSを辿って、姉の情報は続々と集まっていった。そこで写真を見た。母親への興味はいつの間にか褪せていた。
 姉はどんな声で俺の名前を呼ぶのだろうか、どんな風に笑うのだろうか、少しも想像できなくて、ただただ悲しかった。

 ストーカーのように、姉のSNSに張り付く毎日だった。
 そこまで遠くに住んでいるわけじゃないから、会いに行くこともできるにはできる。ただ、段階を追うことも必要だと感じる。
 今のこの、欲望を抑制できない俺が姉と会って、それからどうなるだろう?
 できるだけ、この幸福のぬるま湯に浸っていたい。
 新種の蝶をすみずみまで研究するため、大事に育てるような心地だ。

 だからひとまず、同じ大学を受験して、受かった。
 さすがに学部が同じだと近すぎて観察もできないように思って、適当に建築学部を選んだ。
 姉は初めての一人暮らしに期待と不安を抱きながらも、うまくやっているようだった。
 可もなく不可もない、ありふれた存在の姉を観察する毎日は、全く退屈しない。
 姉がよく行く古本屋も好きで、個人的に通っていた。特に50円文庫には、意外と面白い本があって、俺はそこでよく、立ち読みをした。
 買うことではなく、通うことがしたかったからと言えば、キレイゴトだと笑われるだろうか(もちろん50円文庫以外の本はちゃんと買っているから、許してほしい)。

 そうやって最近、人目があるところで時間を潰さなければやっていけそうにないのは、姉が彼氏と別れたからだった。
 俺は不思議と、姉の彼氏たちには嫉妬はしなかったが、傷ついて痛々しい姉のことは見ていられなかった。
 わざと明るく振る舞ったり、わざとあちこちに出かけたりする。
 友人と外食し、本の内容に感動し、こまめに日々を綴るため、最近は入ってくる情報量がうんと多い。
 春なのだから新しい出会いもあるだろうに、と言ってやりたくもあったが、大学生活も三年目に差し掛かった今、
 俺と姉は未だ、コンタクトを取ってはいなかった。
 執着が薄れたわけでもないが、この距離感が馴染んでしまったといえばいいのか――そりゃあ、談笑してみたい、触れてみたい、笑顔を俺に向けてほしいとも思うけど、でも今は――

「えっ」

 古本屋、50円文庫コーナー前。
 静かな店内に不釣合いな、声が聞こえた。
 姉が、俺だけを見ていた。

 それからの俺たちは早かった。
 だって、姉の方から接触してきたのだから、と、そういう言い訳を用意して、俺は姉とガンガン関わることを決意した。タガが外れるとはまさにこのことだ。
 初めては、念願のカフェでの相席だった。
 声をかけたとき、きっと情けなく喉が震えていたに違いない。

 想像の何百倍も楽しい日々がはじまった。
 姉は姉で、俺を悪くは思っていないようだし。
 そして変な名前で、俺のことを呼んだ。
 カガヤ。
 姉が初めて、俺にくれたもの。

 目の前にいるのが、双子の弟だとも知らずによく笑う。無防備にうとうとする。頬に落ちる睫毛の影まで、愛しくて、苦しくなる。
 同じ苗字をもち、名前だって若干似ている。何せ双子だから。
 俺たちが産まれたときはまだ、父と母の仲は良かったのだろうかと余計なことを考えた。
 この人といるとどうしても、家族・家庭のありかたや、血の繋がりのことばかり想像してしまう。
 みっともないので涙は流さないけど、このまま死んでしまいたいと思う。
 世界はそのくらいに生き地獄だった。平行世界の俺は、幸福にやれているだろうか。

 俺は姉の弟ではなく、ひとりのカガヤという男として、姉のそばにいたい。でもそれは当然叶わない。
 姉に関わったための後悔と、もし関わらなかった場合の後悔、どっちが大きかっただろうかと今更になって考えた。すぐやめた。自分が馬鹿すぎて嫌になる。
 それから、姉にこのことを全て話してみるのはどうかとも思った。
 姉に自分と同じものを背負わせる。それだけで甘やかな気分になった。
 ただ、姉が俺を、俺と同じように愛さなかったらと思うと恐ろしい。


 結局なにも進展はないまま、春が終わり秋も終わり、俺たちは大学四年になろうとしていた。
 この寒い中、姉は屋外カフェにいた。念のためいつもより厚着をしていて良かった、と思った。
 もう姉にまつわる知識のほとんどが、経験に基づくものばかりだ。
 一緒にごはんを食べるうちに好みを覚えて、話すうちに口癖を覚えて、遅くに家まで送るときに、鍵につけているキーホルダーがどんなものかを知る。
 案外普通にやっていけるじゃないかと思っていた。
 だから、平和ボケした俺は、今日が何の日かなんて気付きもしていなかったんだ。


 昨日、長年うちに勤めているハウスキーパーが俺の部屋を訪ねてきた。
 大学に入ってから父とは疎遠になっていたが、毎月の決まった金と、食料品などはこのハウスキーパーに届けさせる。
 甘ったれているのは自分でもわかっていたけれど、今更どうすればいいかわからなかった。
 姉のことも、当然父は知らない。誰もしらない。
 届けられた食料の中に、やたら豪華な寿司が入っていた。しかもとんでもない量だ。
 映画を観ながら少し食べたけど、映画と寿司はあまりよくない組み合わせだということを知った。

 レポートのデータが入ったUSBを落として元気のない姉を、元気付けたいというのは本心だけど、
 抱き締めたり、優しく目を見つめたりするのは絶対に駄目だ。
 カガヤという男として接することは、絶対に駄目だ。
 今日は例外的に、弟としていないと。

 そのとき、ぽんと浮かんだのが寿司のことだった。
 部屋にくる? と聞けないまま、姉を連れ出す。
 自転車の後ろにのせることも、部屋に呼ぶことも、弟としてならいいはず。

 あちこちがほころんで、矛盾しているのはわかっていた。
 でも俺の中の欲望は膨らみすぎて、体のあちこちから漏れ出していたのだ。
 せめて風船みたいに破裂して、跡形もなくなってくれたらどんなにいいだろうか。
 『姉』というご褒美を与えて、ちょっとずつごまかさないと、狂うのが目に見えていた。
 全てを抱え込んで落ち着いているには、俺は若くて、頼りなさすぎる。


 無知に任せて、自転車の後ろに乗った姉が、俺の腰にぎゅっと抱きついてくる。
 俺自身はめちゃくちゃに冷めた気分なのに、沸騰するくらいに熱い血が全身に行き渡るのを感じていて、
 息を止めていないと、今すぐに何もかもを吐き出してしまいそうだった。
 もう、なるようになればいいのに。
 姉にも、俺と同じ血が流れているのだと、それだけを考えながら自転車をこいだ。
 わーっと叫びたいような気もしたけれど、普通に通行人もいるし、何より姉の前だし、狂ったことはやめておこうと思った。
 慎重な俺でよかったと、後から思った。



続きを書きたいようなここで終わらせたいような、
とにかくあまりゲーム向きじゃないなと思ったので
もう公開してしまいます(こっそり続き書くかも)
読んでくださってありがとうございました
2016/02/26